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 里山にまつわる雑学をご紹介していきます。

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信州の木工

信州の木工

針葉樹(カラマツ)家具

 日本では「家具」という概念が明確でなかった江戸時代以前から、針葉樹材を住宅や生活の道具の材料としてなじんできました。スギ、ヒノキ、マツの類は入手しやすく軽量であり、狂いが少ない等から、箪笥の類や建具等に用いられてきました。広葉樹材の桐箪笥や欅箪笥が特徴的であった地域以外では、スギ材を代表とする杉箪笥(雑木)が普及していました。日本はどちらかというと針葉樹材を中心とした文化を形成してきました。しかし、西洋では一般的に広葉樹材を用いることが多く、多くの家具は広葉樹材で作られ、一部の庶民的なものではパイン(マツ)材を使ったものもありましたが、針葉樹材を生かしたものとはいえませんでした。明治・大正期以降、日本で家具が認知されてくると、それに応じた家具が作られ始め、広葉樹材が専ら使われるようになってきました。そして、戦後、全国的に家具が普及し始めた時には、家具の表面に広葉樹材の突板(つきいた)やプリント紙を貼り付けたフラッシュ構造の家具になってしまいました。昭和30~50年頃の家具のほとんどはフラッシュ家具で、現在でもかなり多いようです。
 長野県では1955年頃から、長野県工業試験場(現工業技術総合センター)により、カラマツ材の煮沸(煮る)処理による脱脂技術の開発が研究され、それにともなって1965~1975年頃には脱脂カラマツ材による家具や木製品の開発が最も盛んとなりました。これは全国的にも注目を集めるようになりました。その後も継続的に家具が作られてきましたが、どちらかというと、少し伸び悩みの傾向があったように思われます。1980~1985年頃以降、長野県林業指導所(現林業総合センター)で蒸煮(蒸す)処理による脱脂技術が開発されてきますと、建築材に利用が拡大し、1993年の信州博覧会のやまびこドーム、1998年の長野オリンピックのMウェーブ等の構造集成材での活用が一般化してきました。それ以降、利用分野が拡大していきました。
 1980年以降、蒸煮(スチーミング)処理による脱脂技術が定着してきますと、北海道等でもカラマツ家具の製品化がおこなわれるようになりました。また、建材や住宅部材としても利用されるようになり、カラマツ材の利用は一層推進しました。しかし、家具の分野では、メーカー→問屋→小売りといった当時の流通(この頃の家具は製造メーカー名が書かれていませんでした)に乗り切れず、特注家具(メーカーに独自の家具を注文する)や造作家具(住宅や店舗の造り付け家具)として展開していくことが多かったようです。そういった中で、林業サイドから間伐材の利用をはかるということで、学童用家具の木製化に向けてスギ、ヒノキ、カラマツ等の有効利用をはかる動きが強くなり、1997年に松本市で小学校用にカラマツ学童用椅子・机が導入され、そして、全県に拡大していきました。2002年に長野県林務部の呼びかけにより森世紀工房(カラマツ家具を作ろうとする企業の集まり)が設立され、カラマツ材等の針葉樹家具への取り組みを強め、さらに針葉樹家具の可能性を拡大していったように考えられます。2006年に、針葉樹家具の置かれている状況や今後の方向を探るため、針葉樹家具開発研究会を設立されました。家具の安易な針葉樹化は、針葉樹の良さを生かせないであろうし、イメージを損なうこともあるのではないかという観点で、家具としての針葉樹材の特徴を抽出し、それを踏まえたものづくりをおこなうことを目的としたものでした。
 針葉樹家具は、十分に認知されているとは言い難い状況にあるようです。しかし、国産材を用いようとすると、国産広葉樹材の安定的な供給はますます困難になっていくことは明らかであり、針葉樹材を視野に入れるのは必然的な方向と考えられます。長野県では40年以上も以前から、カラマツ家具に取り組んできましたが、家具需要の時代の変化に対応が十分ではなかったという側面が感じられます。少し早すぎたのかも知れません。しかし、現在にいたって、その重要性は高まりを見せており、針葉樹家具を考えていく時期に入ってきたのではないかと思われます。

長野県の伝統的工芸品

1.伝統的工芸品の成立
 本来の伝統的工芸品というのは、地元の資源や地元の技術で生産し、地元で消費するという当たり前の生産形態でした。しかし、人口の偏りや交通機関の発達等により、資源に依拠する方向が強くなりました。そして、これらはいずれ工場生産の量産化の流れに巻き込まれていってしまいます。多くの伝統的工芸品は、歴史の中に埋没していってしまいましたが、それでも残ったものは、地域の何らかの工夫をしていたり、量産しにくい分野のものではなかったかと思われます。現在残っている伝統的工芸品は、単に伝統を維持してきたということだけでなく、産地としての継続的な技術開発や時代に適応した製品開発をおこなってきた結果であるということができます。これからも、そうしていくことによって、伝統的工芸品が健全な発展を遂げていくものと考えています。

2.長野県の伝統的工芸品
 長野県は、日本のほぼ中央に位置し、面積約1万4千km2 の中に松本、伊那、佐久、善光寺(長野)等々の平地に都市部が分散し、約220万人が暮らしています。あまり大きくない都市が周辺の農山村部を抱えて、それぞれが歴史と文化を持っています。交通機関が未発達の時代には、それぞれが工芸品を熟成させ、その地域に満たすものを作っていました。城下町のように幅広い階層を抱えているところでは、それぞれに応じたものづくりが発達しました。また、こういったものは天然の資源を利用しているものが多いので、それらが採集されたり、集散化しやすいところにも成立します。長野県は大都市を形成していないので、その両方が近接しているところに伝統的工芸品が成立しているものと考えられます。
 長野県には経済産業大臣の指定する伝統的工芸品7品目と、それに準じた長野県知事指定の14品目があり、その他、こういった伝統的工芸品という指定になじまないものも数多くあります。経済産業大臣指定の伝統的工芸品で、木材に由来するものが5品目、長野県知事指定では11品目と、森林資源に根拠を持つものが多いということは、長野県の特徴だと思います。
(経済産業大臣指定伝統的工芸品)
・木曽漆器(塩尻市木曽平沢他、1975年指定)
・信州紬(長野県一円、1975年指定)
・飯山仏壇(飯山市、1975年指定)
・松本家具(松本市他、1976年指定)
・内山紙(飯山市、1976年指定)
・南木曽ろくろ細工(木曽郡南木曽町他、1980年指定)
・信州打刃物(上水内郡信濃町、1982年指定)
(長野県知事指定伝統的工芸品)
・奈良井曲げ物(塩尻市奈良井他)   ・薮原お六櫛(木曽郡木祖村)
・上田農民美術(上田市他)   ・軽井沢彫(北佐久郡軽井沢町)
・木曾材木工芸品(木曽郡全域)   ・白樺工芸品(松本市他)
・蘭桧笠(木曽郡南木曽町)   ・秋山木鉢(下水内郡栄村)
・横倉桐下駄(下水内郡栄村)   ・信州竹細工(山ノ内町、長野市戸隠等)
・野沢あけび細工(下高井郡野沢温泉村)   ・信州鋸(茅野市)
・信州手描き友禅(長野県全域)   ・龍渓硯(上伊那郡辰野町)
(その他の伝統的工芸品)
松本漆器(松本市)、中野杞柳細工(中野市)、飯田水引細工(飯田市)、富士見ロクロ(富士見町)、松代焼(長野市)、阿島傘(喬木村)、野溝箒(松本市)、松本てまり(松本市)、山辺達磨(松本市)、大町木彫品(大町市)、白馬木彫品(白馬村)、中野土雛(中野市)、松本押絵雛(松本市)、佐久藍染(佐久市)等々、多くの伝統的工芸品が遺っています。
 松本家具、飯山仏壇は近隣の資源を使っていますが、どちらかというと都市部として発達しました。都市部には、大工、左官、畳、建具、経師、家具、仏壇、漆器、桶樽、竹細工、鍛冶、石工等の一通りの職人がいましたが、移動しやすいものから、資源に引き寄せられていきました。従って、都市部に家具や仏壇等の大型のものが残り、しかも資源に比較的近かったので、伝統的工芸品に特化していったものと思われます。
 南木曽ろくろ、木曽漆器、内山紙は資源(木材)のあるところに産地を形成し、そこから都市部へ行商等により流通していました。秋山木鉢、薮原お六櫛、龍渓硯、信州竹細工、蘭桧笠、木曽材木工芸品、中野杞柳細工等も同様で、地域が過疎的であるほど、産地が強く形成されました。信州紬は養蚕農家の副業として成立しています。多くの手間を必要とするこれらの分野は、都市近郊の農村部に多く見られます。農閑期の労働力に依存するものとして、野沢あけび蔓細工、信州竹細工、上田農民美術、飯田水引細工等があります。
 木曽漆器は資源に近いところら立地している面もありますが、中山道を通る旅人への土産品や、近隣の農山村への日用品の行商といった動きでした。旅行者を対象とした土産品等については、松本白樺細工、軽井沢彫(家具)、大町や白馬の木彫品等を見ることができます。竹細工やあけび蔓細工、その他の多くの伝統的工芸品もこの傾向があります。
 長野県は都市部で発展したものも含めて、資源への近接性に特徴があります。また、長野県知事指定のもの等を含めても、陶芸、金工、繊維関係があまり強くありません。木材等の森林資源に偏重した産地が多いようです。

3.伝統的工芸品の位置
 交通手段や産業技術が発展し、戦後から高度成長期にかけて、大量生産、大量消費時代に入ってくると、生活用品の分野でも家具のフラッシュ化、建具のアルミサッシ化、小物製品のプラスティック化、衣類の合成繊維化、漆器の代替塗料化等が普及し、さらに1990年代に入ると、バブル経済の崩壊、世界状況の大きな変化から、量産タイプのものは東南アジアや中国等に移り始め、さらにITの進歩により、ものの概念に大きな変化が見られるようになってきました。この過程で生活用品としての伝統的工芸品は存在自体が危うくなり始めています。
 長野県では1970年頃より、都会をドロップアウトしたり、信州の生活にあこがれて木工等のクラフトに携わる、いわゆるクラフトマンが集積するようになりました。彼らの市場は都会が中心となります。都会に住んでいると、木や漆のような自然素材や、手作り的なやさしさへのあこがれが強く、また、大量生産・大量消費社会によって崩壊したコミュニティ産業のような関係を求めており、それに上手く対応しているようです。これらの人たちは旧来の産地型とは相対的に異なっていますが、一部では融合しながら幅のある産地に再編し始めているところもあります。こういった動きは、産地としての分業体制を破壊する役割も持っており、従来型の産地の危機的な状況を加速している面もあります。しかし、消費者と直接向き合い、特別注文にも応じられるなど、都市型の産地的な方向が出始めてきています。

4.伝統的工芸品の方向
 産地の位置によって、考えていく方向が違うのではないかと思われます。
 全国には、現在207品目の伝統的工芸品が、経済産業省による指定を受けています。それに準じた、伝統的工芸品は、その数倍以上はあるでしょう。
 そして、これらの中には産業として成立し得なくなっているもの、産地としてのまとまりができなくなってきたところ、何らかの新しい技術やデザインの開発が困難なところ等、いずれは消えざるを得ないものも多くあると思います。特に経済産業省指定以外の伝統的工芸品は、行政的な支援もほとんどなく、存在感が希薄になりつつあるようです。伝統的工芸品の良さをアピールするのは当然ですが、産地がまとまって、創意と工夫をしていくことが、これを後世に残す唯一の方法ではないかと考えています。
 新しい技術やデザインを開発したり、生活の変化に対応したもの、伝統技術を意識的にこだわったもの等、量産化ではない独自の方向を探っています。伝統の枠から若干はみ出したとしても、産地独特の良さを発揮できるものを考えていく必要があるのではないかと思われます。

家具に使う木材①

 家具に使われてきた「木」は沢山あります。どのような「木」でもそれなりに使うことはできますし、使われた「木」はそれなりに適応していると思います。しかし、時代や地域によって違いますが、沢山使われてきた「木」には、それなりの適性があったのではないかと考えられます。欧米では上流階級を中心として、ウォールナット、マホガニー、ローズウッド、チーク材等が主流の時代があり、日本ではケヤキ(欅)、ヤマグワ(山桑)、唐木(紫檀等)が珍重されてきました。これらは恐らく、木目や材色の美しさだけでなく、加工しやすい、狂いにくい等の良さがあったからではないかと思います。時代を経るに従って、加工技術や塗装技術等の進歩に伴い、もう少し使いにくい「木」も使われるようになっていきます。さらに工業製品化の方向の中で、合板あるいはプラスティック、パイプ等へ転換していく傾向も見られるようになりました。
 欧米では使われる「木」には流行があります。1500年台はオーク(ナラ)の時代、1600年台はウォールナットの時代、1700年台前半はマホガニーの時代、1700年代後半はサテンウッドの時代と呼ばれています。また、チーク、ローズウッド(紫檀)、エボニー(黒檀)等も好まれてきました。近年ではブラックチェリー(サクラ)が好まれるようになってきたといわれています。勿論、時代背景と加工技術、塗装技術との関係が強いと思います。これに加えて、メイプル(カエデ)、バーチ(カンバ)、ビーチ(ブナ)、アッシュ(タモ)、エルム(ニレ)なども使われるようになってきています。これらの木はそれぞれの地域の地元で採れる木で、温帯地域(欧州、北米、日本等)にも同属の「木」があります。家具の内装等には、バスウッド(シナノキ)、コットンウッド(ヤナギ)、チューリップウッド(ホオノキ)、パイン(マツ)等も使われます。また貿易の拡大によって、アフリカ、南米、東南アジア等からの木材も大量に使われるようになり、特にウォールナットやマホガニー等に似たような「木」を○○ウォールナット、□□マホガニーと呼んで受け入れてきました。日本でも同様の傾向があります。
 日本にはあまり家具を考えた文化がなく、住宅の一部として、あるいは什器・備品の延長としてというような概念で、地元の木を必要に応じて適当に使っていたようです。ただ、日本の特産ともいうべきスギ(杉)、キリ(桐)、ケヤキ(欅)はかなり使われています。家具的なもの(和家具)ではこのあたりが特徴的です。いわゆる和家具という概念では、キリ(桐)やケヤキ(欅)の他に、ヤマグワ(桑)、エンジュ(槐)、ケンポナシ(玄圃梨)、キハダ(黄檗)、カキ(柿)等が賞用され、クス(楠)、トチ(栃)、タモ(梻)、セン(栓)、サクラ(桜)、クリ(栗)、カツラ(桂)等も見られます。また、唐木と称するシタン(紫檀)、コクタン(黒檀)、タガヤサン(鉄刀木)、カリン(花櫚)も古くから使われています。洋家具の概念が定着してきた頃より、ナラ(楢)、カンバ(樺)、カエデ(楓)、ニレ(楡)、ブナ(山毛欅)、クルミ(胡桃)なども使われるようになってきました。そして、東南アジア、アフリカ等から木材が輸入されてくると、ブビンガ、ゼブラウッド、パドック、サペリ、オバンコル、パーブルハート等の高級木材も使われるようになりました。そして、ラワン、ラバーウッド(ゴムノキ)、アガチス(南洋の針葉樹材)、ラミン等も大量に輸入されています。また、欧米や極東からタモ、カンバ、サクラ等の類が輸入され、国産材に代わって普及してきました。
 欧米では、家具は上流階級(王侯貴族)が、ウォールナット、マホガニー、ローズウッドといった高級な木材を輸入して作らせていました。それが、少しづつ地主(ヨーマン)や資本家(ブルジョアジー)に普及してくるにつれて、形をマネして、しかも近くの木材で作るという方向がありました。1800年台後半には、加工しやすいウォールナットやマホガニーも使われていますが、梨の木とか林檎の木なども使われるようになります。もう少し庶民が家具を持つようになったときには、針葉樹材もあまり違和感なく使われるようになりました。日本では、家具が急激に入ってきたので、上から下に降りてくるような普及ではなく、地域や住宅のあり方に関係したような普及であったと思われます。戦後は、ラワン合板(ベニヤ)が普及し、家具のほとんどはフラッシュ家具になりました。婚礼家具(洋服箪笥、和箪笥、整理箪笥)はフラッシュ家具でほとんどが作られていました。合板の上に銘木の鉋屑のような突板(つきいた)を貼り付けたもので、軽くて丈夫な構造で、見栄えのするものでした。その突板をチーク材にすれば、チークの家具になり、ローズウッドを使えば、ローズウッドの家具といわれるようになります。このようにして、高級(に見える)家具が、急速に広まっていきました。杢(不規則な木目が美しいもの)のある木材は、突板にして、使われるのが一般的です。杢のあるものをそのまま使えば、狂ったり、割れたりしやすいので、滅多に使われていません。もっと安価にするには、木目を印刷したシート(紙)を貼り付けたものまであります。それもチークの家具であったり、ローズウッドの家具といえるかも知れません。そういった傾向が2000年ぐらいまで続いていました。それ以降は、家具の生産が中国や東南アジアに流れ、そこから、安価な家具が輸入されるようになりました。木目印刷シートを貼り付けるような姑息なことはせず、ムク(あまり高級でない木材、例えばラバーウッドとかアガチス等)材をそのまま使ったようなものが多いようです。MDF(木材パルプを接着剤で固めて板状にしたもの)に突板を貼ったような家具もありますが。また例えば欅の茶箪笥を考えて見ると、日本の欅を日本で茶箪笥にするよりも、欅材を一度輸出して、海外で茶箪笥を作らせて輸入した方が安価だという段階に来ています。最近では、海外の物価も上昇してきたので、少し海外の方が安価だといってレベルにはなってきていますが。
 このように、家具に使われている木材(材料)は、時代と共に大きく変遷してきました。家具にはほとんど関税がかかっていませんので、日本の家具メーカー(作り手)は極めて厳しい状況になってきているようです。

家具の変遷②

  長野県の長野市、松本市、上田市、飯田市等の都市部では欅箪笥あるいは杉箪笥系の家具が作られてきましたが、関東大震災以降、背景の森林資源を活用して、茶箪笥や卓袱台が大量に作られ、大都市部(震災後の東京等)に出荷するようになり、山元型(森林資源に近い)の産地を確立しました。この頃、長野県の家具生産高は全国1位を誇っていました。この分野では機械化(工場制機械工業)によるというよりも、職人達のスピードに依拠した生産(工場制手工業)でした。また、学校や官庁あるいは洋風住宅に対応する洋家具の生産に展開した工場も見られるようになり、軍需関連工場への転換もはかられるようになってきました。職人から工場への転換は昭和中期(戦後)頃には顕著になってきましたが、混然とした状況のようでした。
 戦後の進駐軍特需家具は戦前の実績、戦災が少なかったこと、木材資源が豊富にあったこと等から、長野県は他の産地をしのぐ受注がありました。1948年には商工大臣から重要木工県に指定され、進駐軍特需家具を中心として、家具業界は急速に大型化、近代化しました。その頃、従業員数200名前後の家具メーカーが10社近くあったようです。しかし、この進駐軍特需家具の生産が終了するとともに、一部の家具メーカーはミシンテーブル、スキー等の木工に転換するところもありました。このように戦後の家具は、工場生産型と家具職人とが混在していましたが、徐々に家具職人たちは工場に吸収され、あるいは造作家具等への転換し、徐々に減少していきました。高度成長期以降、量産家具メーカーは20~30社にも及び、全国優良家具展等への出品、信州家具展等を通して、全国の問屋や小売業へ販路を確保していましたが、30~50人規模で、婚礼家具、サイドボード、応接セット等を生産していました。しかし、大川、府中、静岡等の家具産地との競合と、婚礼家具の最盛期を過ぎた頃から、家具需要の変化に対応しきれず、徐々に衰退の方向をたどり始めました。この頃、長野県では婚礼家具、サイドボード等のフラッシュ構造の箱物家具が主流でした。栃杢家具やカラマツ家具、民芸家具等のように長野県らしい特徴もあったのですが、デザイン、機構や機能等の展開が大産地に遅れをとったように感じられます。1969年に第1回目の信州家具展が開催されました。同時期に東京でも信州新作家具見本市が開催されています。こういった家具見本市形式は家具問屋を対象とした一般的なスタイルでしたが、その間、各都道府県でも同様の家具見本市を活発に開催しております。しかし、1980年代に入ると、量産家具メーカーは姿を消していきます。全国優良家具展が廃止になり、代わって国際家具見本市が始まります。量産メーカー→家具問屋→家具店という流通形態に翳りがでてきたということだと思います。そして、このころには住宅や家電メーカー等が家具に進出し、システムファニチャーというスタイルの展開が始まってきます。この段階では港湾地域にある家具産地では、デザイン的な展開を華やかにしながら、乗り切ろうとしていましたが、システム化、ハイテク化といった時代の変化に十分な対応ができなかったように思われます。長野県ではこういった量産家具メーカーはほぼ壊滅し、一部は造作家具やOEM家具等に転換していきました。全国出荷額の1%以下にまで落ち込んでしまいました。
 1960年代に民芸家具が脚光を浴びていますが、手作り、本物志向、職人技というような運動が確実に続けられていました。和家具(茶箪笥や卓袱台)は戦前から長野県の特産でしたが、それに携わっていた人たちが残っており、地道に活動してきました。その一部は民芸家具の方向に進んでいます。松本民芸家具は経済産業大臣の伝統的工芸品にも指定されていますが、和家具の伝統の上に、洋家具を作り出し、非常に格調高い作りから、全国的に注目を集めていました。そして、こういった運動に共感する多くの若者たちが、松本に集まるようになり、1970年代に入ると、そこからクラフト的な運動が全国的に広がっていきました。その頃、長野県内の職業訓練施設(技術専門校)の木工科では、そういった人たちの技術訓練に力を入れ、そこに多くのクラフト志向の人たちが集まり、また、長野県内でクラフト家具(工房系家具)にたずさわるようになってきました。長野県全体では500人を越えるのではないかと思われます。こういったクラフト志向の人たちはあまり組織的な動きはしませんが、信州木工会(松本木工研究会)、松本クラフト推進協会等等に関わって、クラフト的な活動をしています。松本木工研究会(信州木工会)は松本の従来からの職人に加えて、クラフト志向を持った人たちの集まりでした。グループ展を中心に研究会活動を行っていきましたが、常に会員外にも呼びかけていく、従来型の組織とも連携を持っていくという方向で、従来型の産地と新しいクラフトとの相互交流をはかっていき、上手く融合させてきたように思われます。松本クラフト推進協会は、1985年以降毎年クラフトフェア松本を開催しているところですが、従来の産地にとらわれず、全国のクラフト的な運動の中核としてそれを推進しようという方向であり、製品を通した相互の交流によって、クラフト運動を深化させてきています。こういった民芸家具あるいはクラフト家具の動きは、特に長野県が活発で全国をリードする位置にあります。そして、全国的に量産家具メーカーが衰退し、海外に家具の供給を依存する時代になってきますと、長野県の動きは全国に先駆けたものであったという理解も可能だと思います。現在の日本で可能な動きの一つであろうと思われます。

家具の変遷①

 「家具」というものの概念は時代によって変遷します。日本において「家具」という言葉が頻繁に使われるようになってきたのは江戸時代からだといわれています。現在、いわれているような「家具」という概念が明確になってきたのは、明治時代になって西洋家具が入ってきてからだと思われます。西洋の家具を「洋家具」とすると、日本に前からあった家具的なものを「和家具」と名付けました。日本における家具(和家具)として、屏風や障子の類、脇息や文机、厨子や飾り棚等があります。家の中にあるもの、さらに動かせるようなものを総称したように考えられます。こういった「和家具」は権力の象徴、あるいは茶道や宗教上のものでしたが、江戸時代には、帳箪笥、衣装箪笥、薬箪笥等が商売上の必要に応じて、あるいは階段箪笥、水屋箪笥のように住宅構造の変化に応じて作られ始め、それが徐々に拡大していったものがあります。このような箪笥類は地域によって桐箪笥、欅箪笥、杉箪笥に分類されています。桐箪笥は東京、京都、大阪、名古屋等の大都市とその周辺に、欅箪笥は仙台、松本、高山、酒田、鳥取等の日本海側を中心に、その他は杉箪笥として広く分布しています。杉箪笥は杉材に限定する訳ではなく、近隣にある木材(桐や欅以外の)を使う場合もあります。大都市及びその周辺部では桐箪笥の産地が成立し、消費者の個別の需要に応じていましたが、徐々に様式化してきますと、見込み生産が可能になり、しかも桐材は軽く輸送が楽なので、同様に軟材を使う杉箪笥の産地に伝播し、大産地に育っていったところが多いようです。大川(福岡県)。府中(広島県)などの家具の大産地はこういった流れのもとに成立しています。欅家具は重厚なので、あまり輸送が得意でなく、近隣の需要を満たすものとして独自に展開してきました。これらの箪笥の生産は明治・大正期の頃を想定していますので、洋家具と平行して考える必要があります。
 横浜や神戸等に外人が居住し、そこで使われる家具の供給や修理が必要になってきたこと、学校や官庁で椅子・机等の洋家具を採用したこと、上流階級が洋風化をステイタスにしたこと等から、洋家具が急速に普及していきました。これまでの日本の家屋には壁面が少なく、家具を設置できる場所も限定されていましたが、住宅の洋風化(和洋折衷住宅、中廊下型住宅)に応じて壁面が確保されるようになると、急速に取り入れられていきました。ただ、農村部ではこれの普及が昭和中期から戦後にまでずれ込んでいる場合があります。和家具とされる桐箪笥や茶箪笥等も壁面に設置しますので、洋風化に依存しているのではないかと考えられます。また、家族が同じテーブルで食事をするという風習も、それまでは個別にお膳が用いられていたので、昭和期以降のことで、卓袱台(ちゃぶだい)や座卓の普及も洋風化の表れだといえます。学校や官庁で使われた椅子や机、書棚等はそれぞれの地域で指物の職人等によって作られていましたが、徐々に交通手段の進歩によって近くの産地に依存するようになりました。また、洋館や和洋折衷住宅等に入る応接家具、食卓家具、書斎家具等も近くの産地で作られていたものと考えられます。そういったことから、少しづつ洋家具を受け入れざるを得なくなり、地方でも洋家具の生産が見られるようになってきました。東京や大阪等の大都市部では、住宅の開口部を大きくとらないので洋風住宅が多く見られるようになったので、それに応じた家具店、家具職人が存在感を強めるようになってきました。そして、茶箪笥や卓袱台も一般家庭に入り込んできました。少し極端な表現ですが、欧米からキャビネットとかチェスト等が入ってきたとき、これを日本的に取り入れたいということで、桐箪笥(和洋箪笥)が考えられ、その桐箪笥を見て、欅箪笥の地域で、いわゆる茶箪笥が考えられたのではないかと思われます。つまり、現在の和家具の定番的な桐箪笥や茶箪笥(欅)も、昔からあったのではなく、明治後期から昭和初期の頃に普及したのではないかと考えられます。
 戦後、進駐軍特需家具が産地の規模に応じて割り当てられ、戦後復興期の主要産業として、新たに家具を始めるところも多く見られました。さらに住宅事情の変化や木工技術の進歩に伴って、家具は大きく変化し、フラッシュ構造や合成塗料の利用、量産化が一段と進展し、日本独自の洋風化家具は地方にまで広がり、高度成長期には家具の全盛期を迎えました。
 家具というものは、明治・大正期以降コンスタントに作られるようになってきましたが、それぞれの種類によって、盛衰を繰り返しています。茶箪笥や卓袱台は今でも作られていますが、大正末期から戦前あたりにピークがあります。婚礼家具も戦前からありましたが、1960年頃に3点セット、5点セットと称して爆発的に販売され、1970年後半にはほぼ沈静化しました。リビングボードというものも70年頃から普及し始め、1990年頃にはシステムファニチャーと称する造りつけ家具に移行していきました。このように、家具の流行は10~20年で変化していきます。これには、その時代の社会情勢や世相、木工技術、住宅環境等々に影響されているのでしょうが、戦後大きく変化してきたのは、LDK(リビング・ダイニング・キッチン)住宅の一般化と個室化で、それに応じた家具が供給されるようになってきたことによるものと考えられます。LDKに置かれる食堂セット、リビングボード、応接セット、寝室や子ども部屋に置かれるベッド、学習机、書棚等々、それぞれ目的別の家具が普及していきました。居住形態も床座(畳座・床に座る)と椅子座(椅子に座る)とのせめぎ合いのような状態が続き、フローリングにしたけれども、こたつを置いて床に座ったり、空調の普及により、こたつがはずされて椅子に戻ったり、でも寝ころがりたい……、当分これを繰り返しながら、それでも少しづつ椅子の生活に移行していく傾向が見られます。家の中の各部屋(リビングルーム、寝室、子ども部屋等)が目的化され、固定化されて、部屋の汎用的な使い方(食事をしたり、寝たり、テレビを見たりというような多目的的な使い方)はますますなくなってきていました。これに伴って、収納スペースは固定され、箱物家具(箪笥、食器棚、書棚等)から、システムファニチャー、壁面収納へ、そして、ウォーキングクロゼットへ移っていきました。そして脚物家具(学習机、ベッド、応接セット等)の大型のものが普及し、簡単には動かせなくなってきました。そうしているうちに、木製家具は東南アジアや中国から大量に輸入されるようになり、低価格帯の需要が増加したことに伴って、国産の家具は成り立たなくなってきました。現在では、家具の70~80%は輸入されたものになってしまっているようです。

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